目次


「芸術、ナメんなよ。」



「近頃の、若者は…」



「宇都宮説・三輪説」



「思考の欠陥」



「録音再生技術のイデア」



「命かける」



「ストリーム」




「音楽学」



「だまれ、脳科学者たち」



「音楽の説明責任」



「奉納と立会人」



「権力構造の下っ端」



「虚無システム」


「芸術、ナメんなよ。」


宇都宮 どうもこの度は、色々とお世話に…。

三輪 いやいや、こんなに気合いが(笑)。たじろいでるぐらいで。いやー、やっとお目に掛かれました。僕、ほんとね、芸術ナメんなよって言いましたっけねぇ?

宇都宮 そう言ったって、聞いてます。

三輪 「言ってましたよ」とか言うから、「そうですか…」みたいな(笑)

宇都宮 しょうがないから、僕がそれに対してコメントを。

川崎 電話で喋っている時に、そう言ったかもしれない?

三輪 あの、たしかに僕も少しお酒んでたから、「有り得なくはないなぁ」みたいな(笑)

能美 名古屋で公演後、外でこっちのスタッフと三輪さんと川崎さんが喋ってる時に…。

三輪 外で?

能美 はい。「11月3日は、なんでもやってください」って言ったら、ポロッと。

宇都宮 芸術、ナメんなよって?

能美 「川崎君~、『芸術ナメんなよ』って感じでやろうぜ!」って。

川崎 あっ、思い出しました。

三輪 思い出した?こりゃダメだ(笑)。

宇都宮 でも、既にナメちゃってる訳ですから、その先のこと考えないと。これからならね、「まあ、もうちょっと落ち着いていこうか」みたいなのはありますけど、既にナメまくった後なんで。

三輪 そうそう。いよいよね、「ナメんなよ」って声を上げる時は、来てる気がするよね。あまりのアカデミズムの低堕落でね。えっと、今日話しておかなきゃいけないことっていうのは何だっけ?雑談はいくらでも続けられるんだけど。

能美 いや、当日シンポジウムの中で、結局音楽がちょっとまずい事になってるっていうことを、どう観客の皆さんに理解していただくか、話の道筋を決めておいた方が、ある程度良いじゃないかと。

三輪 なるほど、4人揃ってるわけだよね?何か基調講演じゃないけど、一人一人自己紹介なんかも兼ねてやったら、自己紹介だけで終わっちゃうよね?

宇都宮 終わっちゃう、自己紹介はしない。

能美 その情報っていうのはホームページ上に公開していますから、みんな分かって来ると思います。

三輪 なるほどね。

宇都宮 で、今日こうやって集まって話した内容をホームページ上に掲載して、その続きの部分を当日見れるっていうふうにすれば、時間が相当節約出来ると思いますけどね。

三輪 なるほど。

宇都宮 で、その部分っていうのは、結局それ見ずに来る人も居るでしょうから。ざっと書き起こしたものを当日配れるような形にして、イントロダクションを全部省いてしまおうと。

三輪 なるほど。

宇都宮 まあ、それでも時間足りないと思いますけど。

三輪 でも、一番面白いところを最後に持って行くのは、技としては難しい技になるかと(笑)。

宇都宮 まあ、それはどうなるかわかんないですけどね。当日、みんな黙って「うーん…」って。

三輪・川崎 (笑)



「近頃の若者は…」


三輪 加藤和彦さん、絶望して死んじゃいましたよね?

宇都宮 やっぱり絶望なんでしょうかね?希望が潰えたわけですね。いや、僕そう思いますよ。僕、全然へっちゃらですけどね。

三輪 (笑)

宇都宮 あの、よく皆やってるなっていうのは。特にポップスなんかは、やることがもう無いんじゃないかっていう。

三輪 なるほどね。

宇都宮 だから、音楽そのものが順列組み合わせの延長線上にあるっていう前提があるんで、ポップスは特に。僕らは、全然それに反逆する立場にあるんで問題ないんですけど、順列組み合わせの可能性が提示された時点で、もう終わっちゃってる訳ですよ。

三輪 はい。

宇都宮 皆が同じ道具を使って、同じ環境で。

三輪 ほんとうです。

宇都宮 でも、その落とし穴にはハマったのは、自らの責任じゃないかと僕は思うんですよね。

三輪 だから、自らの責任はその通りだけれども。うんと…、前に学生の作品を観た時、めっちゃニヒルだって感じたの。または、パンクだと言っても良いのかもしれないけど。

宇都宮 三輪さんに、ニヒルって言われる学生達ってどんなんだろう(笑)。

三輪 いや何かね、「俺、こういう作品作ります」っていった時に、一つは、全然独りよがりなんだけど、「これが芸術なんです」って言い張る場合があっても良い訳ですよね?それは分かる。それから、考えが少なくたって、考えが足りなくたって、少なくとも本人にとってみれば、「これが芸術の表現なんだ」っていう場合がある。それから、「これは、こんなに役に立つんだ。こういう研究として面白いところがあるんだ」って言い張る。それも独りよがりかもしれないけど、それも良いんだよね。

どれもないわけ、うん。で、もう誰が何の為にやってるのか、それがまず自分の作品なのかも分からない様な作品とのスタンスみたいのが結構たくさんあって。これってどうなんだろう…。「嘘でも何か言い張るだろうに」とか思うんだけど、そうじゃないっていう。

能美 そういう意味では、宇都宮さんの生徒さんと三輪さんの生徒さんの違いみたいなものは、すごく興味あります。それは会場の皆さんもそうかもしれませんけど、今の若者がどうなっていってるのかっていう。

三輪 多分、それってだからね、いつの世代だって、「近頃の若者は…」って言うんだけど、それはそうなんだけどさ。うーん、やっぱり嘘でも夢見る時代みたいなのは与えられる社会ではなくなった気がするんだよね。なんか、何かがもう全面化しちゃって。まあ、僕だったらレコード聴いてプログレッシブロックに憧れてみたいな(笑)。嘘じゃなくて、あるわけだよ。なんか、そういうものが最初から押しつぶされてるようなことかなぁ、なんてね。

宇都宮 愛が足らない。

三輪 うん?

宇都宮 愛していない、愛が足りない。

三輪 でも、やっぱり子供と同じで、愛されたことが無かったら愛することも出来ないっていう意味でっていう感じかなぁ?

宇都宮 昔は芸術系の大学って、後の無い連中が多かったんだよね。で、 結局それを取ったらお前には何も残らないみたいな、割とそんな子が多くて。そういう意味では、とにかく決して優等生ではないんだけど、自分が結局のところそっち向いて行くしかないっていうのがね、自他共にその意識があって。で、今の子たちも似たようなもんなんですよ、状況は。だけど、後があると思ってるのね?

三輪 うん。そうですね、それはそうかも知れない。

宇都宮 だから、結構昔の子達っていうのは、まあ例えばモノ作らないとかいう問題がある時は追いつめれば良かったんですけどね。ある意味、適度に。でも、今の子達って追いつめたら逃げちゃいますから。

三輪 後は引きこもるかね?

宇都宮 まあ、引きこもればまだあれなんだけど、「僕は、芸術の世界の人じゃないよ」と。まあ、中には昔ながらの子もパラパラとは居るんだけど、やっぱ少ない。圧倒的に少ないし、それをかっこいいと思わない。

三輪 うん。まあそうですね。

宇都宮 でも、それは他の分野でもあんまり変わらないんじゃないかと思うね。あの、後が無いと思っていない。例えば、音楽なんかでもどんどんCD屋が潰れて行って、レーベルが潰れていっても既にCD溢れていて、「これでレコード会社が全部無くなったら、俺たちはどうなるんだ?」とか言っても、もう星の数ほど既にCD出回っているんで、「別に新しいものじゃなくたって」って言う開き直りはあるかもしれないですよね。新しいものなんか探さなくたって、それも既に備わっていると。

三輪 そうですね。

宇都宮 そうじゃないんだけど、そういうふうにある意味満足と失望が共存している状態なのかもしれないと、僕は思います。だから、僕は学校でも結構半分笑いながら言うんですけど、「音楽は、いつから夢を売らなくなったのか?」と。

三輪 そうですね。

宇都宮  っていうのは、やっぱりそのスタイルがちょっと変化したっていう。謎も多くて良いわけだし、リスナーがどんなに深入りして研究者がどんなに研究しても、やっぱり解けない謎を持っていて初めてやっぱり作品と言えるわけだし。でも、今のものって言うのは、お茶とかお花みたいなもので作法があって、その作法に従って…。電子音楽もそうですよ。作法があって、その中で月並みに仕事をしていれば名声が得られるっていうか。実績がね、それも難しいんですけど、まあそれも認知してもらえると。っていうのが、僕は異常だと思うんですよ。

三輪 でも、やっぱりずれて来てますよ、それはね。

宇都宮 で、とりあえず今回出っ鼻のところの切り口として、いわゆる電子音楽っていうのを一つのモデルとして。この面子だし日本の電子音楽って本もあるし、そこを当日の起点にしたらどうだろうと。ひとつのモデルとして、僕は面白いと思うんです。っていうのは、生まれて一応終息まで完結した非常に美しいモデルというふうにも思えますし、あの本が出る前だったら、ちょっとやり難かったとも思います。ばっさりと、あのすっぱり冒頭の4分の1くらいのところまで読めば、「こうだったんじゃん」みたいな部分っていうのは、すっぱり切り落とされてるんで。そういう意味では、良いモデルだと思うんですよね。

三輪 そうですね。

宇都宮 で、他の分野でも、それは結局適用されることだと思うんですよ。



「宇都宮説 ・ 三輪説」


三輪 分かりました。岸野さんは、どういう位置づけで?

宇都宮  一応、僕は事前にお話した感じでは、僕と三輪さんという部分もあるし、少なくとも現代のこの混沌の発端っていうのは、要は電気技術によって録音・再生あるいは遠隔で聴くっていうことが可能になった時点まで遡らなければ何も分からないし。じゃあ、そこで色々と説があるわけですけども、まず僕の説からいきます。

要は、そういった新手の技術が出来た時に、音楽は自分の音楽の技術、あるいは音楽学的な意味付けというものを、もっときっちりやっておくべきだったと。音楽に対してこういう影響を及ぼすし、それから「テクノロジーは、こう発展することを望む」ような、そういう展望を音楽は示さなければいけなかったんですが、その当時は知らぬ存ぜぬなんですよ。

で、この辺が面白いところなんですけど、画家は写真機が出来たからといって絵筆を捨てなかったんですよ。が、音楽家は割とテクノロジーに依存しちゃってしまった訳ですよね。で、何か音楽の立場から見ると録音っていう便利な技術があるから、まあそれを利用しようと。トータルで見るとそういうふうに見ることが出来るんだけど、テクノロジーの方から見ると音楽をネタに自分たちの普及っていうか進化に利用して、逆に出涸らしになっちゃったと。

それはどういうことかと言うと、音楽っていうひとつの思想が取り込みに失敗したというふうに、僕は考えてるわけです。だから、今普通に楽典なんかで教えてることの増補をやるべきだったんじゃないかと。録音ということによって何が拡張され、どういう危険を孕んでいるのかっていうのを、逐次やっぱりその中で電気技術としてではなくて、音楽としての用語としてそれをきちんと組み込む必要があったんじゃないかと思うんですよね。

三輪 なるほど。そうだとすると、僕の方が絶望が深いのかもしれなくて。っていうのは、今の話だと、まだ音楽というものを信じているという前提がありますよね?

宇都宮 そうですよ。

三輪 僕だってそうありたいんだけども、テクノロジーっていうものが余りにも強力で、しかも人間の原理で進化してないっていう理解が僕の中にあって。要するに、人間の都合じゃないんですよね。

宇都宮 うん。

三輪  という意味で、取り込むっていうことが果たして可能なのかどうかっていうところで、僕はなんか先ずは立ち止まりますね。で、むしろ可能ではないというところで何が出来るかっていうことになっていくっていうのが、まず今聞いて思ったことなんですけど。その時に、テクノロジーっていうのは録音再生じゃなくて、とにかく録音再生・デジタルカメラ・放送・コンピューター、何でも全部が一つのシステムですから。システムとしての何か自立性みたいなものが、あまりにも強力で。僕らは、それ無しには生きていけない訳だし。

というところで、まあ音楽と呼ばれていたものが、どうこれから有り得るのかっていうふうに考えるんですよね。敢えて言うとね、装置としての人間は変えようがなくて、変わってないんですよね。っていう意味で、古代人から今まで人間の構造自体が装置とし ては変わってないから、そういう意味で何らかの芸術・音楽というふうなものが必要なんだろうと思う。必要なくなる訳にはいかないと思うんですよね。

その、無くなるわけにはいかない部分は信じてるけども、そういう意味で何か理論化するというか言語化するというか対象化するということですよね?って言うのは、もうテクノロジーが人間を作ってるようなものだから、それはさっきの若者の問題なんていうのは、僕らのもっと前から始まってるわけなんですけども。要は、僕らの時代だったらアナログレコードでキングクリムゾンに感動して、まあその既にメディアを前提とした成長をしてるわけですよね。

今は デジタルテクノロジーになって遥かに全面化してるわけですけども。そういうところで、僕自身がその渦中に居るわけだけども、あまりにも全面化すると、もはや人間って主体なんていうものすら要らなくなるくらいのところまで追い込まれるっていう。それは、まあテクノロジーっていうのを擬人化すればテクノロジーのせいなんですけども。っていうのは、テクノロジーのせいだっていう意味は、もはや人間はテクノロジーを制御できないからという意味でテクノロジーのせいなんですよね。

宇都宮 はい。

三輪 人間がテクノロジーの使い方を誤ったから、こんな社会になったのでは全然ないんですよね。

宇都宮 そうですね、それはそうです。

三輪 そういうところが、まあひとつのポイントになるんだろうなと。そしたら、どうしようもないじゃないって。まあ、本当にどうしようもないんですよ。



「思考の欠陥」

宇都宮 僕、考え方としてね、もうちょっとその辺クールで。僕ら、色んなアカデミズムの中でもそのことを知り、それから知るチャンスもあるんですよね。でも、意外なことに自分たちの欠陥、要は思考の欠陥ですよね。その部分については、誰もあまり触れようとはしないわけです。例えば、人間が思考したり感じたする部分で致命的な欠陥っていうのがあって、それは時間を考えるってこと。空間とか場を考え思考することも非常に苦手なんですよ。

三輪 ほうほう。

宇都宮 どういうことかと言うと、譜面っていうのは全て時間軸であり演奏っていうのは全て空間によって行われる、そこから逃れることは出来ないっていうね。なんでかって言ったら、カラオケ行ったらみんなリバーブかけるじゃないですか?シュトックハウゼンといえども、リバーブの魅力には勝てないわけですよね。何の理論的な裏付けも無いのにも関わらず。

三輪 でも、空間って言う。

宇都宮 そう。つまり、場とかその空間・時間軸っていうのを思考することが、徹底して苦手であるにも関わらず、その認識が無いんですよ。

三輪 なるほどね、それは面白い。

宇都宮  で、アナログの時代とデジタルの時代の大きなテクノロジーの違いっていうのは、アナログの時代には記録しようと思うとストリームっていうか、そのテープの様なストリームになぞられるしか無かったんですが、デジタルになってから時間軸を自由自在に操ることができるようになった訳です。つまり、人間の凄く苦手な部分に合わせちゃって、それに驚いてる状態なんですよね。

三輪 うん。

宇都宮  だから、まず第一歩として我々がどこが苦手なのか、何によって補って来たのかっていうことを、もうちょっとクールに眺めていて。例えば、音楽家のトリックっていうものがあって、音楽家が普通の人と違うところっていうのは、普通の人はおよびもしないようなぐらいのフレーズを覚え演奏できるわけです。これは、その能力が無い人から見ると、例えば詩を朗読するっていうことでも良いんですけど。それは、全部時間軸上に展開された情報なんだけど、それを扱うことが出来る人は超能力者なんですよ。

三輪 そうだよね。

宇都宮  だから、まずデジタルが補完したものは何なのか。それから、言ってみれば思考の弱点ていうものは、そう簡単には補えないので、音楽っていう位置付けっていうものを…。例えば、録音や電気技術が入ることによってね、実はそこが変わってるんですよ。つまり時間、要するに時間軸を保存できる、それから違う場所、それからもっと言うんならば電子音楽は本来空間が無いので空間の制御が出来るようになったっていう部分を、もうちょっとクールに気付けたほうが良いん じゃないかと。

だから、何れにしても、この思考の欠陥っていうのは、どっかで破綻する原因になるわけで。音楽の中で抜け落ちてる部分って沢山あって、例えばシンセサイザーが作られる前夜の状況として、エレクトーンとか電子オルガンっていうのがありますよね?波形を幾らきれいに出したって、結局その音に聴こえない訳ですよ。何でかって言うと、それはエンベロープが無いからで。それまでの電子オルガンとシンセサイザーの決定的な違いっていうのは、エンベロープを持つかどうかなんですよ。

三輪 そうですね。時間的なね、推移はね。

宇都宮 それって作ってみるまで分からないって、すごいと思わないですか?作ってみて(笑)。ヤマハの社長が、その当時研究室で言ったらしいんですよ、「やっぱり、オルガンの音じゃん」って(笑)。で、エンジニア一同は顔面蒼白だったと。

三輪  それは、想像できる気がしますよね。つまり、基本的にはシンセサイザーが出来たと言われたのは、論理的に如何なる波形でも作れるぜっていうことは言って。それだったら、如何なる波形も作れるなら如何なる音でも作れると思ったら、とんでもない大間違いで(笑)。それは、劇的に目まぐるしく変わる推移っていう変化のパラメーターみたいなものが抜け落ちていると思う。

宇都宮 まあ一つには、その音楽っていう一つの切り口、学問的な切り口に、時間の思考に関するアプローチと、空間のことに関するアプローチを加える事が先じゃないかなと。

三輪 うん。

宇都宮 つまり、思考出来ないからコントロールできない訳で。要するに、手のうちが分かれば捻じ伏せる方法はあると思うんですよ。だって、誰も分からずにリバーブ使ってる訳じゃないですか?この状況を、まずなんとかしなきゃ(笑)。

三輪 ふーん、そういうふうに考えてるんだ。

宇都宮 まあ、僕は実務的にその辺を考えちゃうんですけどね。これも出来てない、あれも出来てない。まあ、ついでに言うとアクースモニウムが何で駄目かって言うと、スピーカーを沢山並べても、それはスピーカーが鳴ってるのであって空間が作られている訳ではないんですよ。

三輪 ふんふん。

宇都宮  でも、本来の目的は、アクースモニウムっていうそのもののアクースマティックっていう考え方は、何も無いところに、空間の中に音が純粋存在としてなければアクースマティックでは無いんです。そこにスピーカーが鳴ってるだけっていうのは、矛盾どころではないですよね。詐欺にもならない。要は、空間を制御するっていう血を強力に流し込まないと。 まあ、僕は何で電子音楽来ちゃったかと言うと、一つには70年万博の時に沢山スピーカーが並んでて、そこから音が出てくる。でも、それは空間の中に音が満たされているんではなくて、スピーカが鳴ってるに過ぎないと。その時は、はっきりそこまで思わなくて、「これは、何か違うぞ」と。

三輪 だけど、多分意識の裏返しで、僕がラジカセ使うっていうのは、「このスピーカ-が鳴ってんだよ」っていうのが逆にあります。

宇都宮 面白いアイテムがありますから、是非当日にこれを使いましょう。結構、危険が伴うマシンなんですけど。

(超音波スピーカーを取り出す宇都宮氏)

三輪 怪しい、怪しい(笑)

宇都宮 はい。これはね、超音波が発生するんですけど、超音波にFM変調で音声をのせることが出来るんです。

三輪 はぁー。

宇都宮 で、一部の博物館なんかでは、解説用でね。その展示物の前に行かないと聞こえない。

三輪 はいはいはい。

宇都宮 その領域を離れると、全く音が聞こえないと。まあ、そういうもんなんですけど、結構これ危なくて。僕こないだも、ちょっとあわやで耳壊しかけたところです。やっと治ったよ。

能美 やっぱり、それが原因?

宇都宮 これ、間違いない。

三輪 えっと、だからこれ超音波でFM変調で、そのまま音が聞こえる訳ね?受信機が要るわけじゃなく。

宇都宮 要らないです。

三輪 はあー。

宇都宮 ここでは、ちょっとあれなんで。例えば、こう向けるじゃないですか?向けた時に右耳狙えば右耳だけに音を到達させることが出来ます。

三輪 はぁー。

宇都宮 で、数十メートル離れてても音がビシビシ聞こえてきます。

三輪 ヘー。

宇都宮 例えば、こういうふうに壁の向こう側に完全な虚像が出来ます。だから、普通のスピーカーでも虚像は出来てるんですが、スピーカー本体からの音が聞こえるじゃないですか。

三輪 はいはい…。

宇都宮 だから、惑わされてしまうんですけど。

三輪 反射して。

宇都宮 是非、当日ここからラジオの音を。狙い撃ちできます。

三輪 狙い撃ち(笑)。「お前だー」みたいな(笑)

能美 PANとかやらなくても、壁にパーと向けたら…。

宇都宮 そう、壁の向こうに虚像を作ることが出来る。

川崎 超音波だから、当然ここからは何も聞こえない?

宇都宮 何も聞こえないです。でも、だからといって至近距離で聴くとやられちゃいます。って言うのが、120dBくらいの爆音なんでライブハウスのスピーカーの真ん前にいるような、それぐらいの音圧なんだけど耳には聞こえない。

川崎 はぁ。

三輪 スッゲー。

宇都宮 とにかく、11月3日に間に合うように、とりあえずケースにも入れましたし。

三輪 えー?(笑)

宇都宮 いや、キットであるんですよ。

三輪 こわー(笑)

宇都宮 でもね、今時のクールな学生でも、これには本当に興味深々で。やめろって言っても頬擦りするぐらい(笑)。「先生これ良いですー」とか言って(笑)

三輪 またこんな飛び道具が(笑)

宇都宮  はい。でも、まあ音を空間に位置させるアプローチっていうか努力っていうか、やっぱり怠ってはいけないと思うんですよね。それが、出来の良いものであろうと悪いものであろうと、結局そこからインスピレーションが湧いてきますから。でも、十分気をつけてください。耳に近いとアウトですから。鼓膜も危ないし、蝸牛管の中のおそらく有能細胞の40kHz付近のやつが全部根こそぎ折れてるんじゃないかと、そんな感じ。

三輪 貴重なものを。

宇都宮 限度をもって使いましょうと。でも、おもしろいですよ本当に。

三輪 しかし…(笑)。でも、ある部分どう?真逆からのアプローチって感じしない(笑)

川崎 はい。

宇都宮 まあ、あーだこーだ言ってられないじゃないですか。色々面白いネタが…、

三輪 それは、そう僕が言ってるんですけれども(笑)

宇都宮 どうせ飽きちゃうし、「やっぱりこれ耳に悪いよ」とか(笑)

三輪 ねー、そう来るかぁ。



「録音再生技術のイデア」


宇都宮  でね、ちょっと話し戻しますが。岸野さんが言うには、まずモノラルフォニックからスタートした。で、それがステレオ化された時点でね、モノからステレオの移行…。移行っていうか、まあ要するにきちんと使いこなすっていう事が出来ていないんじゃないかと、進化出来ていないと。伝送型としての形は普通にあるんだけど、それが何者なのかっていうことが分からずに我々は使っているんじゃないかと。

三輪 ほう。それは音像とかいう…、

宇都宮  勿論、それもありますし。それから、単純に録音して再生されるっていうことの中に、人間系が入っていないと。人間系を含めた上でモノからスレテオへの移行が、きちんと出来ていないと。物理学としては出来ていてもね。実際、学生にどう考えればいいのかっていうのを説明する時に、もう既にある訳じゃないですか?それについて位置づけをし直すっていうのは非常に難しい。

三輪 なるほどね。

宇都宮  で、一つには伝送論を例にとって、目の前には壁があるんだ。ドラえもんの、「どこでもドア」みたいなやつ。で、どこでも壁で、そこに窓が開いている。窓が一個の場合はモノ、窓が2つの場合をステレオというと。窓なのだ、と。まあ、そういうふうな言い方でお茶を濁すしかないわけですよね。でも、ここで大きなつまずきがあって、バイノーラルってあるじゃないですか?

三輪 はい。

宇 どんなに精密に作っても、その場で聴いてる音にはならないっていうね。確かにリアルなんだけど、どうしても前方向に定位がいかないっていう問題が。あの、生理的な問題もあるんですけどね。きちんと、要するに研究も追いついていなければ…。

三輪 だから、それって理屈では良いはずですよね?

宇都宮 良いはずなんです。良いはずなのに、その部分でこけちゃってるんです。

三輪 ほう。

宇都宮 だからバイノーラルっていうのは、実はステレオフォニックよりも古くって。スピーカー再生のステレオよりも。

三輪 そうなんだ。

宇都宮 っていうのは、もともと劇場で二つの電話機を使って別のところに中継をしていた時に、それを同時に聴いていた人が居て。つまり、スピーカーではなくって二つの受話器を使ってっていうのが謂れとしては古いようですね。

三輪 ほう。話それますけど、秘密のやり方で床屋さんのはさみの音が後ろから聴こえるっていう…。

宇都宮 あー、はいはい。

三輪 あれは、秘密なんでしたっけ?

宇都宮 うーん、その辺は色んな研究っていうか企業があって、アメリカなんかではフォロフォニックっていう会社が一社独占をやっぱり狙ってて。

三輪 やっぱりそういうもんなんですね?

宇都宮 でも、もうそれも30年も前の話ですからね。結局のところ進化しないっていうか。

三輪 ですよね。

宇都宮 結局駄目押しでチャンネル数増やしてみようか、みたいなところだろうと思うんですよ。とにかく、ステレオっていうものがいびつだと岸野さんはおっしゃってましたね。

三輪 あと、また話ずれるんだけど、宇都宮さんのインタビューにもあったんだけど、あれ見て思い出したのは、僕の友達が16×8くらいだったと思うんだけど、ひとつのマトリックスがこれぐらいで、マイクもそれだけ並べて逆にスピーカー並べて…。

宇都宮 波面保存ですね。

三輪 うん。っていうのをやって聞かせてもらって。一つは録音で、一つは彼の作品で。いや、まあスピーカーなんだから、そのいびつさは相当なのだろうと思ったんだけど意外と凄かったのを思い出して。そうなのかとか、思ったんですけどね。

宇都宮  まあ、生徒なんかにもよくやらせてるのは、サラウンドの方ではなくてインラインの方。インラインの6とかね。とにかく取り囲むのは、まあ後のはなしで。とりあえず、前に二つのステレオじゃなくて、まずは4つ並べてみたらどうだと。で、それを増やしていくと波面再現が可能になってくるんですけどね。

三輪  あー、でもお話伺ってて、なんというか目から鱗というかね。ステレオって、まあステレオマイクなんかもそうかもしれないけど、一応物理的なことはやってるの分かるけど、実にアバウトなイデア論的なことで、実際の本当のところどうなのかっていうのが、すごく怪しいんですよね?

宇都宮 怪しい。結構、色んな通信工学とか物理学の人が言ってる波面制御と、僕が言ってる波面制御っていうのは違ってて。彼らは、再現を目指すんです。

三輪 再現?

宇都宮 立場の上で、再現なんですよ。で、僕はそうではなくって、もうちょっと楽な方法があるんじゃないかと。つまり、波面の形、非球面度と聴覚の間にどういう関係があるのかっていうのがね、これすごくパラドックスとして面白くて。スピーカーの設計技術者は、否応なく球面波を目指すんです。って言うか、それが神様なんですよ。彼らの設計セオリーはね、音響学のね。っていうのは、音響学の理想音源っていうのは「無限に小さい呼吸する球」っていうふうに定義されるので、球面波から逃れられないんですよね。

三輪 ふんふん。

宇都宮 ところが、楽器で球面波出すものないんですよ。

三輪 ふーん。

宇都宮  みんないびつなんです。で、その波面の歪み方と聴覚の間、あるいはその音楽の間にどういう関係があるのかは誰も研究していないんですよね、で、しょうがないんで、細々と色んなコンサートやった時の条件とかをまとめていくと、どうも再現が出来るっていうのは、もちろんそれはそれに越したことないんですけど、それよりももっと近道がある。要するに、波面の崩れっっぷりを認知していると。

三輪 はぁ、はぁはぁ。

宇都宮 球面波か非球面波か、つまり、その崩れっぷりをね。要するに、完全に崩れてしまうとノイズと成る訳ですが、そのノイズに向かうどの辺で耳から聴いているかということで、色んな聴覚的な情報を引き出してるらしいということ。

三輪 ほう、人間の脳が?

宇都宮  人間の脳がね。だけど、そのマイクロフォン的な穴から入ってどういう変換をするにせよ、「脳が感じる時に波面の形なんか解りようが無いじゃないか」っていうのが多くの意見なんですが。でも、明確にその距離っていうものが認知できるっていうことは球面っていうか波面の曲率を聴いていると。遠いか、近いか。だとしたら、崩れっぷりを再現したら良いんじゃないかって言うのが、宇都宮方式の波面制御の考え方なんです。

三輪 もう、科学とオカルトの何か交わるところみたいな(笑)

宇都宮 そうそうそう、そうです(笑)。ところが、本当に不思議で、本当に不思議なんですよ。僕は、オカルトというのは否定しますが。

三輪 はい、分かってます。

宇都宮  誰もやったことが無い世界っていうのは、パラダイスで。我々の、その聴覚で言われているマスキング効果であったりとかカクテルパーティー効果だとか、それが全部度返しになっちゃうっていう凄い世界が生まれちゃうんです。

三輪 カクテルパーティー効果でない録音・再生っていうのが、あり得るわけですね?

宇都宮 はい。生の空間に於いてのみ有り得るんです。

三輪 うん、うん。

宇都宮 録音は出来ません。

三輪 ですよね。

宇都宮 録音っていうテクノロジーは、波面の一側面しか捉えないので保存できないんです。

三輪 ですよね。

宇都宮 でも、その現場にいると、例えば110dBを超えるような結構爆音であっても、その音圧感が無いんですよ。

三輪 ああ。

宇都宮  普通ライブハウスなんかだと、結構うんざりするような部分ってあるんですけど、音圧計見て初めてその音量が出てるって言うのが分かる。その状態で、観客が歩く自分が会場で歩く足音がうるさい。普通、爆音でガーって鳴ってたら、ロックなんかの会場で、誰が怒鳴ろうと服が擦れとうと足音があろうと、常識的には、そんなもの絶対気にならないですよね。でも、それがうるさいねんな?

能美  うん、うん。

宇都宮 「お前、静かに歩けよ」みたいな。だから、そういう生理的な特質っていうのが、全くおかしな状況になってしまう。つまり、どういう事かというと言うと、未知の領域がたくさんそこにあるわけですよ。

三輪 なるほど。

宇都宮 まあ、これ一つの例なんですけど。まあ、この「高貴寺 ザ・ライブ」っていのは、それが全面に押し出されたコンサートの録音物なんですけどね。

三輪 へー。

宇都宮 だから、まあそれは実際に味わってみないと分からない事だし、どういう理論を持ってしても説明が出来ない。けど、そこに確かに存在しているっていう、まあそういうヒントですよね。一つには、コンサートっていうライブのコンサートであったり、三輪さんや僕の作品っていうのは別として、普通のクラシックやポップスの場合、家でCD聴くのと会場で聴くのと何が違うかって言ったら、うるさくてインフルエンザ貰う可能性が高くって、目の前でそのアーティストがいるっていう、それだけですよね。で、状況としては家でCD聴いてる方がクールなんじゃないかと。つまり、その場であったり色んなものの要素っていうのが、会場でなければ得られないものっていうのは無いんですよね、なかなか。

三輪 ん?会場でなければ得られない…、

宇都宮 得られない、要するにCD聴くより良い部分っていうのがあまりないわけです。いや、ロックの時代って凄かったじゃないですか?レコード聴いて、いいなとか思って行ったら、「えー、10分で終わり?」みたいなのもあれば、色んなそういうハプニングっていうか、いい意味でも悪い意味でも、「ああ、音楽ってこういうものなのか。」って思わされることっていうのは多かったですね。今それ無くなって、決められた通り、決められたメニューの中で、決められた演出で、この辺で盛り上がってっていうのが全部コントロールされています。

三輪 うんうん。

宇都宮 それをやればやる程、録音物と変わりがなくなってしまう。

三輪 そうですね。

宇都宮 だから、冷静に考えた時に、その場に行かないと味わえない凄さっていうのが無いですよ。だから、まず一つの方法としては、空間を制御するっていう部分が音楽の表現として重要であると位置付ければ、ライブにそれだけ勢力を傾けることが出来るようになりますから。だから、再びそういったライブパフォーマンスっていうか、ライブそのものに客を呼び込むことができる。ライブには、そういう良いものがあるんだと。まあ、それも一つの方法論かなっていうふうに思ったりしています。波面制御っていうのは、そういう意味で今の音響学から見ると、完全に邪教の世界なんですけど。

三輪 ふふふふっ。

宇都宮 説明のしようがないのね。「ここも未知、ここも未知、ここもわかんない。これも不思議」、そんなことばっかりなんで。だから、そういう意味では、結構邪教なんですけど。確かに、それは再現出来て、それからコントロールも出来ると。まず、音楽ってそれでいいんじゃないかと思うんですよね。まあとにかく、その場とかその時間軸のコントロールそのものっていうのは音の並びがどうとかではなく、要するに音楽の表現要素の主体というふうに音楽の理論自体を変えていけば、我々が出来ることはまだ無限にあるというふうに言えますよね。



「命かける」

宇都宮 音楽大学に来て勉強すればするほど音楽に失望していく状況っていうのを、どうすれば良くなるかって言ったら、価値のプライオリィティーていうものを再構築するしかないと。だから、メディアの方はそれを満たすように発展して来た訳ですから。だから、そこから先に行くには新しい価値感というものを、その中に組み込んでいかなければ。というか、そういう努力を皆しなければいけないんじゃないかと。

三輪 まあ、その辺は多分同業者だからですよね。つまり、アカデミーの中で年取った人間が若い人に何かを伝えるっていう時に、「これが大事だ」っていう事を自信も持って言えないっていうのが、最も緊急の課題で。つまり、ちょっと前までは作曲の先生は五線譜書けなきゃ作曲家になれないんだし、音楽家にもなれない訳だよね。ていうところで、「つべこべ言わずに、まずこれだけは覚えておけ。身につけろ。」とやっていて、それをやっていれば先生として成立しているわけだけれども。

で、今は「俺、ラップトップでやります。」って言ったら、それバイパスしちゃうわけですから。その時に、「いや、それくだらない」って言うのは簡単なんだけど、問題っていうのはそういうところではなくて…。多分共通のあれですよね?特に、メディアアートで本当のところ何を教えたらいいのかっていうか、何が一番大事なのかって全く明らかにされてませんからね。

宇都宮 おっしゃる通りですね。だから、まあ価値体系が崩壊してる。

三輪 崩壊してるわけですからね。

宇都宮 でも、何に価値があるかっていうのは、やっぱり昔から先生が教えるもんだったと思うんですよね。で、その辺がやっぱりちょっと甘くなってるかなっていうのは、少し思います。

三輪 先生が、っていうこと?

宇都宮 うん、先生も。それから、社会の風潮っていうのもね。だから、例えば今一番困ってしまうのは、少なくとも我々が若い時代っていうのは、オリジナリティが高いものっていうのは、まず無条件に一つの価値を持つというふうに教えられたもんなんですが、今の子にそれを言っても、「ふーん」っていう。それで終わり。

三輪 いや、それが僕がさっき言った話なんですけれども。あの、オリジナリティーを主張をしようとも思わないっていう。

宇都宮 そうそうそう。

三輪 まさに、その話なんですけれども。

宇都宮 で、社会もそれを認めないと。お前のやつはよく分からないけど、オリジナリティが高いことは認めようと。そういう部分というのが、やっぱり全体にもちょっと薄いかなと。

三輪 でも、それ即ちね、「俺、だめだめ人間だけど、これだけは負けないぞ」みたいなのがあってさ。それがさ、少なくとも僕が知っている、「人間を、主体を支えているもの」だったはずなんですよね。つまり、「俺が、この世にいる価値なんて、本当は虚構。」だとしてもですよ。それでも、とにかく「俺は、これができる」っていうのが、その人を支えているもので、逆に言えば、それ無しでどうやって成立するんだろうっていう。じゃあ、もはや無い状態で生きてるのかしら?っていうぐらい、別世界の人に見える。でも、結構そうなのかもしれない。

宇都宮 何なんでしょうね?そのオリジナリティっていうか、価値体系の平坦化とういうか。

三輪 うーん。まあ、まず通俗的に言える事としては、何かそれに無理があって疲れているということだと思うんですね。つまり、今言ったような、「他はだめだけど、俺これはできる」とかいうのが、逆に今無くなったらアウトだっていう…。ずっと、同じ事話してると思うんだけど。なんだけれども、逆に言えば、「君にも何か才能があるはずだ。君にも何か出来ることがあるはずだ、頑張れ。」みたいなのが迫りすぎると、もちろんそれで一念発起する人もいるかもしれないけど、そうじゃない場合は、「もういいよね」っていうのはあって。で、「いいよ、俺…」だけど、食えなくて餓死するわけじゃないし…。う~ん。

宇都宮 昔は結構ね、命かけてる部分あったじゃないですか 。

三輪 うん、そうそう。

宇都宮 今、それカッコ悪いらしいですよね。

三輪 あっ、そうかもしれない。

宇都宮 今回、加藤和彦のあれも、そういう意味では昔だったら多分反応が随分違うと思うんですよね。殉教者扱いだと思うんですが、今はかっこ悪い人なんですよ。多分ね。

三輪 それ大きいと思う。だから、「ふーん」で終わっちゃうんですよね。

宇都宮 まあ、一部の作品って作品聴くだけで命かけてんなって分かるじゃないですか。まあ、それは分野を問わずね。クラシックであろうとジャズであろうとロックであろうと、「命がけねえ」って。で、それが伝わった瞬間に、「ああ、みんな頑張ってるな」って僕ら思ったりするわけですけれど。

三輪 趣味に合わなくても、聴こうと思いますね。

宇都宮 今の子達って、それが重すぎるんですよ。っていうか、引いちゃうっていうのはあるんです。まあとにかく、状況の変化っていうのは、それはそれで受けとめないとしょうがないわけで。その中で、我々が何をし得るかっていうことです。

三輪 いや、だから、「ナメんなよ」に繋がりますけどね。でもね、この辺は知性と関係あると思うの。世代が違うんだから社会的状況も違うんだから、そういうキャラクターだとはしても。少なくとも、「今頃の若い者は…」という僕の立場から言えば、少なくとも僕は「命かけてるぞ」ということは、やっぱりそれも一つの虚構に過ぎないということは分かってやっているわけですよね。だけれども、僕が批判する若者たちは、少なくとも分かっちゃいないですよね。

宇都宮 分かってない。

三輪 意識化されてないですよね

宇都宮 だから、「ナメんなよ」って、ついどっかでムカムカしながら…。

三輪 それはやっぱり大きな違いで。もちろん、僕だって今の若者の時代に分かっちゃいなかったけれども。でもまあね、少なくとも、もうちょっと敬意がありましたよね。先生にとか、大人の言うことに(笑)。

宇都宮 ありました、怖かったです。

三輪 一応黙って聞きましたね、まず(笑)。で、そっちの方が得だったと俺は思うけどね。

宇都宮 ふふふっ(笑)。



「ストリーム」

宇都宮 まあそれでね、とりあえず今の子達の環境とね、我々とか我々以前の環境の経験してきたものの何が違うかっていうことを考えた時に、まあそりゃいろいろ負の遺産もありますが、それは置いといて。とりあえず、今の子達っていうのが、楽器を始めるなら楽器が簡単に手に入る、コンピューターやりたいならコンピューターが簡単に手に入る。まあ、それと同じように僕らがやっぱりスタートした部分っていうのは、テクノロジーを受け入れるそもそもの入口って、何かこう手にすることが出来る簡単な録音再生機みたいな部分から入っていません?

三輪 入っています。

宇都宮 それが欠けてるんじゃないかと思う、インフラとしてね。録音再生が簡単に出来て、そこから全てが発展していくようなね。そういう物っていうのが世の中に溢れていて、初めて音楽っていうか、今の形態の音楽は出来るんじゃないかと。だから、楽器持ったことない子にバンドの面白さなんか教えられないですよね。それと同じように、自分たちが今の技術で何か作品を作ろうっていう場合に、「録音して再生できるていうことの説明出来ない面白さ」っていうのを共有していない子に教えることが、非常に苦痛なんですよ。

三輪 うんうん。

宇都宮 今の若者たちの、その辺の録音がらみって、いきなりもうコンピューターベースでトラックは何百トラックOKみたいな、そんな世界ですからね。だから、まず自分でマイク向ける。で、録音して聴いてみる。その時に得られる感覚っていうのを、何というのか…。っていうのが、なんでこういう話をするかって言うと、一時期録音機が全く無い時代っていうのがしばらく続いたっていうのはあると思うんです。まあ、敷居が高くなったっていうか。カセットがある時代はよかったんですけど、カセット以降の部分が途切れちゃっているんですよ。

三輪 MDとか、何か過渡期があって。で、結局スタンダードもはっきりせずに、とりあえずはっていうことだね。あれなんだよね、ビデオカメラと違って録音機っていうのは、多分今でも家電じゃないんだよね。

宇都宮 うん、だからまあ分類不能なんですよ。

三輪 ビデオは家電でいいんだけど、録音機っていうのは家電じゃなくて。だってね、息子のピアノの発表会だってビデオ持っていくのが普通ですね。フォルマント兄弟的には、これには訳があって。音っていうのは、それそのものは既に怖いもんなんですよ。あの、人間にとってね。特に、自分の声が。そんなこと思うんだけども。

宇都宮 そのことすら、知らないですもん。自分の声が不気味って。

三輪 あぁ、そうかそうかそうか。それこそね、自分の顔と同じでメディアを使わなければ絶対に聞けないのが自分の声ですよね。

宇都宮 要するに鏡。

三輪 そう。鏡がない限り、絶対に見えないってこと。直接見えないっていうわけですね。

宇都宮 あの、前に送ったCDで、「トクサノカンダカラ」ってあるじゃないですか。あれ、なんで鏡のデザインになってるかっていうと、知性を映し出す鏡っていう意味なんです。

三輪 あぁ、そうそうそう…。怖いですよ、音楽は。

宇都宮 だから、怖い存在でいいと思うんですよ。「たかが音楽」って、ナメてるから。で、怖い部分っていうのは全部目を目をつぶって通っちゃってる。聴いていないんですよ。

三輪 だから、流行のポップスは録音するけど、自分の声なんて絶対に録音しないですよね(笑)。まあ、理由もあんまりないんだろうけども。でも、一番エキサイティングなのは、自分の声なんだろうけれどもね。

宇都宮 1倍速で今流れているもの、FMであろうと何であろうと放送メディアであろうと、録音するのは録音なんですよ。ネットワークでサーバーにあるやつをダウンロードしてくるのは、それは録音じゃないんですよね。ファイルコピーなんですよ。

三輪 あーあー。

宇都宮 でも、それすらごっちゃになってるじゃないですか。これ、全く違うことなんですよね。多分、同じだと思いますけれども、新曲がレコード発売前にかかるぞっていったら、クリムゾンの新曲かかるらしいとか。もう、(レコーダーを構えて)これもんじゃないですか(笑)

三輪  ふふふふつ(笑)

宇都宮 「今日は、どうして電波の状態悪いんだ!」っていう(笑)

三輪 よりによってね(笑)

宇都宮 そうそう、そうそう。「デンチ、ヨシ!」とかね、「テープ、ヨシ!」とか。あの、ファイルのダウンロードって、それないんですよ。自分緊張しなくていいですよね。

三輪 いやぁ~。

宇都宮 まあ、最近ずっとaudacityっていうフリーソフトのマニュアルを書いていて。いずれ公開するんですけれども、電子音楽がらみで。っていうのが、僕、川崎さんが書かれたあの本自体すごいと思うんですよ。でも、あれを読んで面白いと思った人たちが、その過去の作品はともかく、「自分で同じことをしてみたい」と思った時に、今風のテキストが無いですよね。どういうことかって言うと、オシレーターで正弦波を出して聴いてみるっていう、その簡単なことが出来ないんですよ。それを録音して再生してみるっていう、そのこと自体がまず大変なんです。まあ、そういうところから全部始めて、あんまり難しくならないように、「数学と関係あるんだよ」みたいなところまで。

その中で、ふと気が付いたんです。「録音とファイルコピーとは明らかに違うのに、一体何が違うんだ?」っていうのを色々考えていたら、「あっ、コンピューターとかデジタルメディアが得意としているのはファイルシステムであって、ストリームじゃないんだ」と。

三輪 ふんふん。

宇都宮 ストリームっていうのは、要するに一つ一つの時間軸と共に共同してるやつで、時間軸をその中から削り落としたものがファイルなんですよね。だから、ファイルにすると高速にやりとりが出来るのですが、ストリームのままでは、せいぜい4倍速がいいところで。

三輪 うんうんうん、はいはいはい。

宇都宮 だけど我々は、操作上どっちもリッピング出来て、編集出来てって思ってるんですが、実はストリーミングは相変わらず困難なままなんですよ。コンピューターで取り込んでも、「どうしてこんなに音悪いかな?」みたいな。

三輪 それは、僕もよくよく意識することがあって。基本的に、コンピューターって時間の概念が多分二つあって。一つはミリセカンドで計れるような僕らが生きているような時間、つまりストリーミングの時間ですね。それと、もう一つは前後しかない時間で。それが、やっぱりデジタルファイルのシステム。それはだから、基本的にはミリセカンドの時間なんていうのは必要悪なのであって、問題なのは前後しかない訳ですよね。順序しかないわけですよね。だから、コンピューターにとってみると、それを擬似的にディレイして作っているだけのことで、コンピューターそのものが本質的にそういう時間を持ってないっていうことでしょうね。

宇都宮 これがね、コンピューターだけでなく使う側の人間にも、その部分が浸透してるんですよ。

三輪 アナログ世界に生きているのに?

宇都宮 そうなんです。だからストリーミングは面倒くさいけれども、ファイルは簡単っていう。今のテレビなんかのドラマの効果音マンたちって、昔みたいにマイクとレコーダー持って山の中に1週間なんての無いですよ。彼らが得意なのは、どこのサイトにどんなライブラリーがあって、そっから如何に全部吐き出させるかっていう、そっちなんです。

三輪 なるほどね。

宇都宮 だから、時間軸とそれをカットしたファイルシステムっていうものは別物だっていう、これも音楽の側面からでないと多分説明ができないと思います。つまり、音楽がその部分を放棄しちゃってるからごっちゃになっているわけです。っていうのが、CDの中に10曲あって、例えば三輪さんのライブがあったとするじゃないですか、ライブアルバムね。で、「ここと、ここと、ここに切れ目入れたい」って言ったら、いやおうなく分割されますね。良いわけないじゃないですか(笑)

三輪 良いわけない(笑)

宇都宮 「これは連続した時間であって、マークを打ちたいんだ」と。ストリームの場合は、マークなんです。でも、コンピューター上でそれをしようとすると、ファイルとして一つずつを分離しないといけないですよね。僕は、それがどうしても納得できないですよ。で、それとおんなじことが日常の中でも、今の価値感を支配しているというふうに僕は思う訳です。で、「そうじゃないんだよ、ストリーミングとファイルは違うんだよ」っていうのは、僕は音楽に説明責任があるんじゃないかと。ストリーミングがあれば、「空間」っていうものが説明できるんです。でも、ストリーミングが無くてファイルっていう考え方の中には、「空間」は存在し得ないんですよ。

三輪 でも、テクノロジーにとってみれば、ストリーミングは、わざわざディレイかませるだけのことですね。

宇都宮 面倒くさいんです。

三輪 はははっ(笑)。で、そうしたって悪くはないんだけど、本質はストリーミングが無いから…。どう考えたらいいんだろうな。

宇都宮 でも、まあ今のこのデジタル化っていうは、それが同じだという説明があるから、皆が採用している訳じゃないですか。デジタルっていうのは、サンプリング周波数とビット数で表現できるっていう、それで終わりですよね。

三輪 だから、テープに録音した4つの曲で、1曲目から2曲目に飛ぶのと、4曲目ともなったら4曲目に早まわしする時間がかかると。っていう、それが早まわしであったとしても、そういう物理的な世界との関係みたいなものを、一つの瞬間的な感覚として把握できるわけですよね。それが、完全にそうじゃなくなった時には擬似的にそれをわざわざ模倣するようなことは出来るかもしれないけれども、それは擬似的にやってるだけのことで。つまり、人間の認知形式に何とか合わせようとしてるだけで、それ自体は…。っていうことですね。

宇都宮 そこが、やっぱりきちんと説明されていないところが、今日鬱が多い原因じゃないっすか。いや、訳分かんないじゃないですか?だって、僕らストリームの中に生きているわけですよ。なのに、自分たちが扱う物というのは、そのストリームの中から時間だけを削除したもので、そんなの理解できるわけがないですよ。

三輪 そうですね。

宇都宮 でも、「何となく曖昧にいけるからいいじゃん」みたいな、そういう状態だと思うんです。

三輪 あと、デカイ曲はファイルサイズもデカイっていうのは納得できる(笑)

宇都宮 まっ、とにかく僕の説では、音楽は説明責任を放棄しています。音楽から情報理論について釘させるぐらい音楽の中で認識が深まらないと。今日も言っていたんですよ、ここ集まる時にね。「音楽学が頑張らないから、俺たちはこういうことで悩まないとならんのじゃ」みたいな。要するに、音楽の方の理論が100年前からほとんど進化していないということではなくて、それからどんどん新しいものを吸収同化出来ていれば、もうちょっとマシだと思うんですよ。マシっていうのは音楽ビジネスもそうだし、それから作品を取り囲む位置付け。社会的なその位置付けっていうのも、もう少しマシだと思うんですよね。で、音楽は救いであり続ける。

三輪 それは、やっぱり音楽をモノのように、商品としてモノのように扱うっていうところが大きいでしょうかね。

宇都宮 でも、CDは明らかにストリームなんですよ。だけど、CD以降のメディアはストリーミングじゃないですよね、ファイルなんです。だから、例えばどういうふうにCD-Rに焼くかとか、なんでCDの頭出しはこんなに精度が悪いのかとか、その辺についてやっぱりもうちょっと誰かが説明しなければならない訳だし。とにかく、やっぱり時間の必要性っていうのかな?我々のこの思考にとって弱点でもあり、それが無いと思考出来ないいう部分っていうのは、もっと言わなきゃいけないと思います。

三輪 くだらないこと思い出しちゃった(笑)

宇都宮 何?

三輪 レコードで交響曲1楽章と2楽章の間、あの狭いところにちゃんと針落せましたよね(笑)

宇都宮 すごいと思います。

三輪 すごいですよね。あの狭さね。CDも、そういうの出来たらいいよね。「2曲目、ああうまく下ろせない!」とかね、「頭から始まらない」とかさ。「間違って1曲目の最後に行っちゃった」とか(笑)。

宇都宮 えっと、誰だっけな。東北の方の大学のなんか先生で、情報理論だか音響学だかちょっと忘れましたけれどもね。CDを入れる時の角度で音が変わるっていうのを言ってる。確かに、センターではないのでスピンドルの軸と盤の軸が合ってるかっつーと、確かに合いの悪いっていうのはあるんです。でも、それでそこまでの音変わるって言われたら、変わらないとは言えないかもしれないけど、それほどそれが重要なことかっていうのは、ちょっと…。

三輪 でも、アナログではありましたよね。軸を修正するっていう。

宇都宮 ありますよ、変わりますよ。軸を修正すると、たしかに音良くなりますよ。



「音楽学」

宇都宮  あの、もうちょっと先に話を進めないといけないんですが。立場的に、音楽を救いたいと思いますか。

三輪 えっと、まずはYESと言いましょう。全くそう思っていますね。我らが発狂しないためには。多分、同じことを言っているんだと思うんだけど、それには余りにも不問に付れている事を意識化・対象化しないと、とにかく解決の糸口すら見つからないという。そういう危機感ですよね。

宇都宮 じゃあ、もうちょっと音楽学に頑張ってもらわないと。

三輪 うん。でも多分ね、それは知性じゃなくて知識だろうな。いわゆる専門的な知識、今の現代社会というふうに考えた時、テクノロジーとか物理学とかの世界の知識とかっていうのが無いわけにはいかなくて。やっぱりよく言われていることだけれども、文系理系みたいな分別をしている限り未来はなくて、両方跨げる人じゃないと本当のところは見つけられないだと思うんですよね。

宇都宮 確かにね。

三輪 まあだから、なんていうんだろう?哲学やっている人やね、そればっかりやってたんじゃあ新しいもの見つからないって、そんなことは僕は言わないけれども。つまり、それはだからなんて言うんだろ?物理の勉強しましたとかそういう話じゃなくて、それに対する本質的な理解みたいなものがあれば、もちろんOK。だから、多分逆が一番問題だと思う。つまり、理系の人が文化とか音楽とか芸術とかっていうものを理解することが、余りにもないがしろにされていると思う。その逆よりは、遥かに酷い状況だと思う。

宇都宮 そうですね。まあ、それで僕も音響学会辞めちゃったですよ。「こんな所にいれるか」って。口ではね、芸術をヨイショしているんですよ。やっていることは、真逆ですから。

三輪 それが真逆だっていうことにすら認識出来ないんですよ。要は、日本の次の産業になるんだとか、そんな空虚に楽に価値を置くようなもので良いと思っているというのは、何か…。これだけ頭いい人が沢山いるのに、どうしてそうなんだろう?って、すごく不思議に思う。

宇都宮 まず、音楽そのものっていうのが位置付けをかっちり誰かがっていうか、まあ僕にはどうしようもないですけれどもね。あの、例えばほら、音の絡みの問題っていうのは本当に中途半端で。例えば、音響学会ってあるじゃないですか?あそこなんかの場合、自然科学系列でも、どこにも分類がないんですよね。

三輪 ああ、はいはい。

宇都宮 音楽学っていうのも微妙に言うと、一体どこの系列になるのかっていうのが宙ぶらりんで謎なんですよね。

三輪 多分、音楽学、美学、で哲学っていうことになるんでしょうね。

宇都宮 でもねえ、なんか人事なので何とも言えないんですが、「一体何を論点にこれを論じているんだろう?」っていう。要するに、音楽学の論文を読んでもね、立ち位置が見えない。それは、いつも感じることですね。

三輪 それこそが音楽学だけじゃなくて、現代のあらゆる分野で起きているところで。時代が余りにも早く変わっちゃって、ハシゴを降ろされちゃったようなもので。僕が学生だった時だって、マーラーのアナリーゼからシューベルトのアナリーゼからやって、一通りやるわけじゃないですか?音楽学の人は、そういうことをやればよかったし、また新しい音楽については、それをやればよくて、それがちゃんと仕事としてプロフェッショナルとしてあって成り立っていたんだけれども、「今それをやることが一体どういうことなんだ?」っていう。「何の意味があるんだ?」ってことを問われる時代になっちゃって。そこに答えない限りは、幾らアナリーゼが上手く出来ても、何の意味も持てなくなっちゃうっていうことですよね、多分。

例えば、今までだったら、一番良い大学って音楽大学なんてポップスなんて相手にしていませんでしたよ。「そんなものは、くだらない」と。だから、僕のお兄さんの世代なんてさ、ビートルズが来日するっていったら、中学校が「絶対にコンサートに行っちゃいけない」とかさ、不良だからってさ、マジでそういう時代がすぐ前にあったわけよね。っていうくらいのもので、当然ハイソサエティーというか、ハイレベルな音楽学がポップスなんか相手にするわけがなかった。もう、今は平気でね…。

宇都宮 っていうか、そっちに主体を移せみたいな。でも、日本でいうポップスと、三輪さんヨーロッパじゃないですか?ヨーロッパなんかでいうロックだとか、その概念って随分違うと思いません?

三輪 そうですね、それはそうですね。

宇都宮 だから現代曲の作曲家だと思っていたら、結構ロックなやつだなとか、こっそり両方二股かけてるやつとか。プロデューサーなんかどこの出身かと思ったら、「こんなところ出ているのか?」みたいな。パリコンセルバトワール出てたりとか。割と、そういうのがざらざらいて。まあ、そういう意味では土台が分厚いっていうのはありますね。だから垣根として、そこまでポップスとか古典だとか、裕福な事の垣根がないんですよね。でも、それを日本でやったら絶対仲間外れになりますから。

三輪 僕ケルンにいた時、タンジェリンドリームのメンバーの1人の現代音楽コンサート良かったよ、平気に普通に来て。あの、さっきの理系の悪口っていうじゃないけれど…、教養ないですよね。まあ、例えばドイツの首相のシュミットがさ、ピアノ弾いてレコード出したとかCD出したとか、そこまではいかなくても政治家ですら意味のあるスピーチするよ。政治家ですらだよ?その辺の最低レベルって一般大衆は置いといたとしても、そういう社会的に重要な人は…、

川崎 X JAPANに、プレスリーの…。

三輪 そうそう(笑)

宇都宮 これ言っちゃあ、どうしょうもないんですけど。文化として、どのぐらい根づいているかっていう部分でもあるんでしょうけれども。まあ日本の場合っていうのは、やっぱり商業ベースにのってないやつは、基本的に全部価値のランクが下がるっていう傾向ありますよね。例えば、ロック・ポップス寄りで現代アートと二股かけてるような連中っていうのは、結局居場所が無いっていう。

三輪 そういうことですね。まあだから、もう一つは多分日本だけじゃないんだろうけれども、日本に伝統文化があって、今でも歌舞伎とかやっているわけですから。歌舞伎とか日本の伝統芸能を行くとさ、知らない人ばっかりだし、「おぉー、こんな人たちが、こんなにいっぱいいたんだ!」とか思うと、すごい興奮するんだけど(笑)。だからといってね、日本の首相がお能に造詣が深いとかそういう人いる?いないと思うんだよね。だからね、話を先にするとすればですね、ここで僕は一応電気文明と呼んでいるんですけれども。いわゆる50年くらい前からの、「電気が永遠に供給されるっていうことを前提として未来を考えるようになった人類」のことなんですけれども。この電気文明における芸術音楽のあり方っていうのを考えるっていうのは、僕にとっては一番自然なんですね。

宇都宮 だったら、音楽はもうちょっとそっちを取り込まないと。

三輪 その通りです。そこで、さっき質問されていることを僕の言い方で言うと、そうをいうことで。じゃあ、電気が常に供給されている中で、それを拒否することも勿論有り得るかもしれないけれど、実際はあり得ないですよね。全く有り得ないから拒否するんじゃなくて、それを受け入れた上で僕らがまともに思考して、まともに健やかに世界を見ることができるような状況っていうのは、どういうふうに作れるんだろうっていうのが、やっぱり僕の関心事ですね。それには、勿論音楽っていうのが非常に重要で、僕にとっては特に重要なものであって。



「だまれ、脳科学者たち」

宇都宮 まあ、根も葉もないことなんですが、いわゆる知性の部分のかなりの部分って聴覚で作られるらしいんですよね。特に物事を順序立てて考えるっていう時間軸を鍛えあげる作業は、言語と音楽しかないわけですよ。

三輪 なぜなら、「人間は自分の話すことを聴く存在」だからですよね。

宇都宮 そうなんです、そうなんです。だから、もう既にその時点で思考が…、

三輪 思考っていうもの自体が、自分で話して聞いているんですからね。

宇都宮 はい、時間軸を行使して。どうやら普通の人間の頭の中には時間軸は1本しかなくて、だから自分で自分の時間軸を見ることができないですよ。そこから弱点になるわけです、既に使っているんで。やっぱりその辺りの部分っていうのは、なんて言えばいいかな?もうちょっと、その端的な指摘っていうのは、わざわざ医学でいうことでもないと思うし、精神心理学とかでいうことでもないと思うし、音楽の側がそういう周辺の事柄っていうのを、もうちょっと取り込んだ方が僕はいいじゃないかと思うんですよね。

三輪 「だまれ、脳科学者たち」だね。

一同爆笑

宇都宮 はいはい…。

三輪 でも、やられっ放しですよね?脳科学者にやられっ放しですよ。

宇都宮 僕はあれですよ?「JON&UTSUNOMIA」で、結構一矢報いたって思ってるんですけど。まあ、電気文明っていうふうにおっしゃってます、全くその通りだと思うんですね。結局の所、エネルギーとして非常に大きいですよ。出来ることのポテンシャルも高いし。だから、やっぱり一歩使い方を間違えると悲惨なしっぺ返しを食うっていう意味で、「音楽ナメんなよ」っていうのがあるかもしれません。が、音楽やっている人達には、「電気ナメんなよ」というふうに、ちょっと言ってみたいところもあります。だから、電子音楽が滅びた理由の一つは、「電気ナメんなよ」っていう部分なんだと思うんですよ。ナメてたんでないですか?ちょっと。

三輪 そうだと思いますよ。で、それが何か趣味的に、「俺は電子音楽やりたい」っていうようなスタンスで見てると、実は扱うものはとてつもないものだっていうことが、やっぱり認識されてなかったんでしょうね。

宇都宮 ないんでしょうね。っていうか、一部の人のものだったじゃないですか?だから、それが広くインフラが揃ってくると、インフラの整備と共に下火になっていく部分っていうのは、まあ結局そういうことじゃないかと思いますね。で、それと同じことが音楽全般について、例えばコンピューターの普及によって、出来ることの可能性が全部先まで見えてしまったような気がしてるんだと思うんですよ。だから、それは幻想なわけであって、先まで見通せるわけもないんで。僕なんかは、その辺の切り口でちょっと戦いたいなと。だから、「これも見落としていた。これも見落としていた。これも見落としていた。」って見落としが、沢山あるので。

三輪 多分、音楽学の話でいうとね、やっぱり直接電子音楽は一番コアな部分だけれども、ごく一般に社会におけるテクノロジーっていう意味じゃ、放送とかそういうメディア?メディアっていうものが、もはや音楽学の領域では手に負えないような事ばっかり事例として出てきてしまって、お手上げっていうことなんですね。

宇都宮 まあ、地上波デジタルがどうとか言っていますけど、誰も双方向性なんか期待もしていないんだけど。未来予想的には、次に来るものは双方向なんですかね。

三輪 なんですかね、わかんないけど。はっきりしたのは、特に今回作品作った時に書いた作文では電子音楽のコンサートってことになっているだけども、それを理解するために必要な知識とかそういうものっていうのは、ほとんど音楽学・音楽史とは関係無くて、むしろメディアの歴史の方が遥かにそれを説明するには必要な知識なんだって、すごくはっきり意識したんですね。

多分、今後も変わらないし、最後の最後まで音楽学でいうのは音楽の中のアコースティックな音楽の中で、一つのジャンルとして何とか全部を説明しようとする。まあ、グレン・グールドから始まって、それが放送されCDになり、それ一つ一つはアコースティックな身体によって生まれた音かもしれないけれども、全然違うわけで。ある有名なピアニストを知っている人が世界中に沢山いたとしても、本当に生を聴いたことある人は、そのごく一部なわけですよね。だけども、その人は愛されるわけだし、商業的にも成功する。それも、全てテクノロジーと資本主義と織り成すもので、全然音楽学と関係ないですよね。批評が成立するとしても、またメディアに乗ったものとしてしか成立しないわけですから。

宇都宮 それと、今その批評っていう話が出ましたけれど、批評が今危機的状況にあるみたいで、出版メディアは続々と全滅っていう。これも何か象徴してますね。中には音楽聴かずに、批評眺めているだけで幸せっていう人も、結構いると思うんですけどもね。それすら無くなったのかっていう。

三輪 いやあ…、かなりお手上げですね。

宇都宮 まあ、「本来の音楽の需要ってこんなものなのか」、っていう諦めも無いわけではないんですけれどね。例えば、一億二千万人いて、全人口の中で本当に音楽ないと生きていけない人が何%いるか。それから、常に新しいものを貪欲に求め続ける人が何%いるかっていうことを考えると、まあ日本で1000枚売れれば大ヒットかって気もしないでもないですけれどもね。

まあ、ちょっとそういう出版物っていうのが今まで沢山売れ続けたっていうのがあって、出版物そのものがそれだけ売れないと最低限のラインを割っちゃうっていう、そういうシステムに問題があるのかもしれないですけれどもね。

でも、まあブームみたいなもので、「音楽には金出さん」っていうのが、一つのブームになりつつあるんで、それはちょっと嫌だなっていうのは。ただ、やっぱり僕思いますけれども、音楽は学問を名乗るのなら、やっぱりさっきポップスの話でましたけれども、音楽大学なんかポップス扱わない、絶対にそのロックやジャズなんかは扱わないというのは、一つは説明が出来ないというのがあると思うんです。つまり、それを音楽の理解できる、音楽学が説明できる範囲内で再現しても、そのようにはならないっていうことですよね。

三輪 和声分析出来るけど、別にそれには(笑)

宇都宮 出来るんだけれども、それを再現したところで、そうはならんっていう(笑)。まあ、僕らの立場でいえば、「どんなクソみたいな演奏でも、俺はフェーダー1本で何とか聴けるようにしてやるぜ」っていう自負がありますから。

三輪 アハハハハ。

宇都宮 あのね、クラシックのコンクールで、オーディションってあるんですよ。それが、未だにオーディションでMDを使ってます。未だにMDなんです。MDのポータブルのやつって、録音するとかなり音悪いんですよ。で、これを一旦非圧縮で録音してダウンコンバートしてMDに入れてやると、CD並みの音になる。これ不思議なことなんですが、圧縮が問題じゃないんです。

三輪 問題じゃないですか?

宇都宮 問題じゃないです。だから、そもそもどういうストリームでそこに情報を定着させるかで180度変わっちゃうんです。MDは、それが激しいです。で、一旦非圧縮で録音したものをダウンコンバートしてMDにストリーミングで入れてやると、ほぼCD並なんです。それで応募すると、一次予選の合格率がむちゃむちゃいいっていう。思うやろ?

能美 ほぼ100%です。

宇都宮 ほぼ100%なんですよ。本当に100%、出せば通るっていうぐらい。要するに、この演奏の善し悪しを上回る価値がそこに生じるわけですよね。だったら、音楽として無視できないですよね?だから、良い録音は金がかかるとかそういうことじゃないんですよ。そういう問題じゃないです。

三輪 だから、僕はついにMDだけは買わなかったですけれどもね。

能美 録音エンジニアリング的に、対オーディションにはどうすればいいか教え込まれましたから。クラシックでありながら、ポップスの時に使うような一次オーディション突破のいろんな技を注入すると…。

三輪 クラシックだと、ただ音圧を上げればいいっていうもんじゃあない(笑)

宇都宮 それはないです、それはないです。

能美 だから、録音の時に1発で録音もしますけど、何テイクか録音したベストのイントロの部分っていうのを切り張りするとか…。そんな卑怯な手じゃないですけど。

三輪 姑息だよね~(笑)

宇都宮 まあ編集やらないにしても、非圧縮で録音してコンバートして入れるのと、MDで一発で録るとでは、はっきり言ってMD一発で録るという方が可哀想っていうのはありますよね。例えば、コンクールの評価で、「透明感もある美しい声」なんていうふうに書かれても、それは声が美しいじゃなくて、その中に入っている「場」が美しいのであって声じゃないよというふうに言いたいのですが、聴いてる側には声なのか空間なのかも区別できないです。そんな状態だから、僕はマズイと。これを見抜けないようでは、マズイと。これにダマされてきたんじゃん、要はね。

三輪 まあ、でもそうだね。MDの録音ための回路とかって、そんなに真面目に作っていないでしょうね。

宇都宮 なんか、アルゴリズムが違うんですよ。

三輪 はあ。

宇都宮 だから、オプティカルでデジタル to デジタルで入れた場合と、マイク突っ込んで入れた場合で、全然入っている情報が違うんですよ。MDは、特に激しいですね。

三輪 なるほど。

宇都宮 まあ、MDなんか使わないのが一番いいです。

三輪 MDならMDっていうものが、限られた制限の中で、本当はどこまでいけるのかていうのは、僕らはほとんど分かってなくて。「まあ、こんなもんなんだろう。しかも、なんか変な圧縮してるみたいだし。」っていう、そういう理解だったわけなんだけれども。実は、どこまでっていうのは誰も知らないってっていうか、やってみないとわからない。

宇都宮 手続きが変わってしまうんですよ。あの、三輪さんなんかもほぼ同年代で聴いているものもよく似てると思うんですけれども、例えば電子音楽なんかのコンクールとか、そういうのでも上位に入賞しているやつと二番目のやつと、確かに音楽的に能力の差っていうのはあるんだけど、それ以外の部分って大きいじゃないですか?僕も、それに早い頃に気が付いて、もちろん中身も良くないとだめなんだけれども、「これは中身の問題じゃない、これ使っているリバーブがこっちの方がいいんじゃん」とか。「あっ、これはまずリバーブ作らなければ」って、僕は大学の1年生の時に思って。

三輪 作るとは、俺考えないけれども(笑)

宇都宮 っていうのは、そんな年代ですからデジタルは無かったですし、手に届くっていったらスプリングリバーブしかなかったですから。

三輪 「放送局には鉄板があるらしい」とかね。(笑)

宇都宮 で、僕は大学1年生から2年生に上がる時に、建築現場に行って、こっそり鉄板を1枚…、畳1畳の。

三輪 ハハハハッ(笑)

宇都宮 これで、もう数々のコンクールは全部制覇しましたから、そんなもんですよ。もちろん中身も頑張りましたけれど。だから、例えばその辺がどうしてそうなってしまうのかっていうのは、僕は思うんですけれども音楽の方からは説明できませんよね?ていうか、音楽は認めたくないですよね。

三輪 たくないね。

宇都宮 でも、これは多大な影響を及ぼしているっていうのは、これはいずれ組み込まないといけないし、シンセサイザーのエンベロープの問題も、どうして音の三要素に四要素目として入れてもらえないのだろうか、っていうのは常々僕は不満でした。まあ、自分の授業で教える時も、「一般的には三要素っていって、四番目のやつは入れないんだけれどもね。」っていう説明をしなければならない。でも、必携です。まあ、その辺でオルガンとシンセサイザーの違いとか説明できるんで、「あなたは、どっちに行きたいですか?」、と(笑)。

三輪 まあ、だから録音されたものになったら、もちろん中身も考えますとおっしゃいましたけれども、リバーブだって音楽の一部ではあるけれどねえ。明らかですからね。



「音楽の説明責任」

宇都宮 あの、今医療なんかでも説明責任ってよく言われるじゃないですか?僕、思うんですけれども、音楽についてもっと僕は説明責任がいると思うんですよ、本当に。それをちょっと怠っている部分があります。どんだけ説明しても、優れた作品というのは説明できない部分が絶対に沢山あるんです。それで説明できちゃう音楽っていうのは、多分クズなんです。そう思って、まあ「トクサノカンダカラ」なんかは作ったわけです。

だから、説明責任っていうのを、もうちょっときちっと作れば…。とにかく、そのアルバム1枚作ろうと思ったら40分ぶんぐらいは入っていないと何か言われそうだし(笑)。で、40分満そうと思ったら、「40分1曲はしんどいよな」とか、「5分の曲だったら何曲いるか」とか、そんな事考えないといけないじゃないですか。説明責任を含めれば、1曲であってもその生産過程というか、思考過程を全部入れることでアルバム1枚では収まらないですから。そういう意味でね。

そうすると、多分それが理解出来るかどうかは分からないですが、リスナーと作り手が共有できるものが多いと思います。今逆にいうと、音楽を知らない人が幾ら想像を巡らしても、どうやって作ったのかも分からなければ、何を考えて作ったかもわからないっていう、完全に突き放したような。音楽を勉強したってことは一言も書かれていない、手がかりがないわけです。だから、そういう意味では説明責任っていうのを、もうちょっと音楽は果たした方がいいんじゃないかなっていうのはね、ステップとして。

三輪 僕としては、結構しゃべりまくってますけどね。

宇都宮 まあ、そういうのが少ないですよ。

川崎 作文と、いう…。

宇都宮 だから、まあ今回シンポジウムですから、色々提案していかないといけないじゃないですか。一つ「説明責任」というのは、入れてもいいかもしれません。そうすれば、コスト的にも合うと思いません?沢山入れなくてもいいわけですから。好きなだけ文章も添付できますし。

三輪 まあ、現代音楽なんて多いですよね?「聴いてもらえればいいです」っていう人ね。僕なんかは、「これ聴く前に、この作文しっかり読んでおいてくださいね」って(笑)。逆のタイプですけれども(笑)。

宇都宮 「読んでもよくわからないじゃん」とか(笑)。



「奉納と立会人」

宇都宮 一度伺っておきたいと思っていたのですが、ホームページとか色々見ると結構儀式性ってこととか儀式典礼形式っていうか、そういう部分が結構出てきたりするんですけれども、本気なんですか?

三輪 いえいえ、本気とは言えないと思います。まあ、ただ何か基本的に多分芸術っていうのは人に対してあるもんではなくて、奉納するものだという基本形式があって。それは、クラシックでもピアノのコンサートでも、もちろん客に聴かせるんだけれども客のためにやることになったら、それはエンターテイメントなんだろうと思うんですね。純粋に、それだけになったらね。そうじゃない部分があるから、芸術っていうのは芸術っていえるのかなと思うのが一つ。まあ、そういう時間内での体験っていうようなものは、もちろん儀式っていうのが実際一番伝統があるわけですから。かつて、確かにそうであったわけですから。そういう意味で、意識せざるを得ない。

宇都宮 なるほどね、この質問はよかったな。根底に奉納っていうのがあるんですね。

三輪 そうですね。まあ、あらゆる表現が芸を奉納するっていうのは、実際そうだったわけですからね。

宇都宮 じゃあ、「高貴寺 ザ・ライブ」と一緒なわけね、なるほどね。そういう共通項があるということか。

三輪 だって、それなくしたらねえ、もう…。

宇都宮 でも、「高貴寺 ザ・ライブ」も出演者なんかでも苦労しました。その奉納っていう概念を、きちっと理解してくれるアーティストもいれば、全くそれに対して否定的な演奏家もいますし。「客あって、ウケてるの観てなんぼ」と、はっきり言い切っちゃう人は多いですからね。

三輪 そうかもしれませんね。それは、うん。

宇都宮 中には奉納中毒になって、とにかくも毎回出させてくれみたいな(笑)

三輪 まあ、だからお客さんっていうのじゃなくて、実際はそうなんだけれども、基本的には奉納に立ち会う人ですよね。

宇都宮 そうそう、立会人なんですよね。まあ、これもちょっと聞いておかないと。その、音楽とそれぞれ自身、僕と音楽の関わり合いみたいな部分で、まあどの辺を目指すかっていうか、音楽の中のできるものなら究極的に王者を目指したいか。それとも、ちょっとそれとは違うところに自分も位置付けたいか。

三輪 えっと…、はい。

宇都宮 川崎さん、その辺がはっきりしていますよね。自分ではしない。

川崎 アーティストでは無いので。

三輪 一番ずるいね(笑)

宇都宮 自分ではしない(笑)、ちょっと対岸から眺めて。

川崎 潜望鏡で。

三輪 あの辺、沈没しやがったとか(笑)。

宇都宮 「あれ、最初から危なかったんだよね」とか(笑)

三輪 後で言うんですよね。

川崎 よく見たら、泥の船でしたとか(笑)

三輪 「前から危ないと思ったんだよな~」とか(笑)

宇都宮 ほれみろとか(笑)

(一同、しばらく笑い転げる。)

三輪 えっと、だから僕は基本的にね、結構ここ数年大きくシフトしてるんですね。っていうのは、何といったってヨーロッパの作曲という歴史の中で自分を最大限に出したいと思ってきたんだけれども。今回の話を受けるのもそうですし、フォルマント兄弟もそうなんですけれども、この電気文明の中での新しい芸術っていうものの、何か度台になるような考え方とか世界の見方とか、そういうものを提示しないで死ねないでしょうみたいなね。今は、そういう意識ですね。だからそれが、どんな些細なもんでもいいから、そういうものができたら本望ですよね。

宇都宮 なるほどね。まあ、僕なんかはよく自問自答するんですよ。僕は一体何なりたいのか?で、まあ一応それなりに作曲も習ってるし、電子音楽についても多分これ以上はないっていうところで習っているし、いろんなことを勉強しているにもかかわらず、それを思う存分行使したいとは思わないですよ。あの、結構周りはアツイっていうふうに思ってる人も多いですけれども、自分で観るに結構クールで。どっちかっていうと、ちょっと観察者でありたい部分っていうのはあるんです。

観察者でありたいんだけれども、ついちょっかい出してしまうっていうのがあって。例えば、動物なんかでいうと、猫の生態をガーって丘の上から眺めていて喧嘩していたら、「まあまあ、待てよ」みたいな、つい手を出してしまうみたいな部分もあるんだけれども、実際には当事者にならなきゃいけないかなみたいな甘えたことを考えてもいるわけです。例えば、コンクールなんてのがあったら、「コンクールは、こうやったら勝てるじゃん」というのを考えついちゃうんです。だけど、それをずーっと行使することで王者になりたいとは思わないんですよ。

三輪 それは、やっぱり未来のために使うのがいいんじゃないですかね。

宇都宮 正しい使い道っていうのが自分の中で、まだちゃんと分かっていないというのがあって。だけど、まあ細々等は作品も作ってますがっていう、そういう微妙な立場ではあるんです。

三輪 僕なんかだったら何でも出来るわけじゃない訳で。例えば、哲学的な思想とかね、そういうことでは自慢するわけでもない。だから、自分なりに、まず絶対わかりたいっていうのはあるんだけれども、まあ僕が自分でやるとしたら些細なことでもやってみてるっていうのがあって。やっぱりアーティスト、とにかく作曲家でもどんなアーティストでも、やってみてなきゃ価値ゼロですからね。やってみてるっていうことが、やっぱり一番そういう意味じゃ当事者になるのかもしれないですけれどもね。

宇都宮 完全に当事者になってしまうと、やはり自分がやっていることが見えなくなるのかなっていうのもあって。あの、一歩隔たった所にいるから、よく見える部分っていうのはあるような気もするんですよ。

三輪 うん、うんうん。もちろん、それYESですよ。そう思いますけれども…。



「権力構造の下っ端」

三輪 うーん、でもね、僕だって最近ね、すごく特にそういう分にはメディアアートみたいなこと考えると、政治?政治っていうこと、すごく意識するようになるわけですね。っていうのは、結局メディアアートの状況だとか文化の状況だとか何とかっていう所で、「芸術、ナメんなよ」のもう一つは、役人とか政治家ですよね?

つまり、「この程度の理解で文化を考えて何かを判断しているのか」っていう意味で、「ナメんなよ」なんですけどね。「そんなくだらないこと考えずにやってないんだよ」っていうのが、すごくあって。だけども、結局それに黙ってるっていうことが、それを放棄することになるし、実際放置した結果が今現れていると思うし。っていう意味では、やはり今まで全く別世界のことと思ったかもしれないけれど。いや、だって僕が政治に口出さなかったら、誰が口出すの?っていうくらい政治が寄ってきている。っていうか、距離が近づいてる感覚があるんですよね。

別に、政治的な力は全くないんですけれどもね。無いとは言ったって、例えば僕は今岐阜県の学校で雇われてるっていうのはあってね。日本の権力構造の一番下っ端にいるわけで、研究と称してこういうふうに色々創作もやらしてもらっている。これだって誰かが作ったことで、ありがたいと思うんですけれども。いやね、この世の決まりの全ては人間が何らかの方法で決めていて、それ政治の結果なわけですね。で、それの中で政治に、ある意味で自分の専門において無関心であるっていうことが、どうなんだろうっていう?今まで、そんなこと考える余裕すらなかったけれども。今だってあるわけじゃないけれども、ちょっと最近そのことをよく考えるようになりました。

宇都宮 なるほどね。

三輪 あと、やっぱり子供がいるとリアルですよね。こんな馬鹿な学校しかないのかとか、学校でこんな馬鹿なことしか教えてもらえないかとかね。

宇都宮 なるほどね。

三輪 それは引きこもりとかいろんな問題だって、小学校中学校の先生フルパワー働いて、あれだけの人数いっぺんに相手にできるはずがないですよね。しかも、雑用なりやらされてさ。それは、不可能なんであって。どんな能力がある人だって、熱意がある人であってもね。それは、教育者が悪いんじゃなくて体制が教育をナメてるんですよね。ちゃんとした、日本の未来を担う若者を育てたいってあったら、ちゃんと金かけなきゃっていうかね。先生大事にしなきゃ、それはうまくいくはずがない。

宇都宮 まあ、仕事ナメてる先生も多いっていうのはあると思うけど…、

三輪 いやいやいや、それはあるかもしれませんけど。それはあるかもしれないけれども、僕はまず体制から間違っていると思う。

宇都宮 まあ後、そういう教育現場っていうか、仕事の問題でいくとね。やっぱり、査定環境が悪いなあっていうのはありますね。きちっと査定出来ていないなっていうのは、学校なんかを見ると思いますね。「何、見てるんだ?」っていうのは、すごく思いますね。まあ、だからその辺っていうのがね、学校の経営なんてわからないですけれども、「一体、どういうコンセプトでその学校があるんだ?」とか。それから、「何を目的にしているのか、どんな学生を輩出したいのか」とかいう部分っていうのが、結局のところ我々最前線の部分では実績に繋がるわけで。

三輪 いや、だから今の答えは、テクノロジー産業に有用な人材を育てればいいんですよ。理系は技術をやり、文系はコンテンツを作れと。そういうことでしょう?冗談じゃないですよ。で、それ一色になるっていうのは、やっぱりもう耐え難いです。今の状況って、僕は。

宇都宮 まあ、ちょっとその辺は教育機関としての問題点も大きいという。

三輪 教育機関っていうか、まあ少なくとも日本に限って言えば、世間の風潮がそうだから政治も間抜けなことを言うわけで。あの、全てですよね?そして、それに対して、「それはおかしい」って言う人達が余りにも少ないわけですよね。

宇都宮 「みんな食えてるから、これでいいんじゃん」みたいな、そんな感じですよね。やっぱり絶望してるんですね。

三輪 僕から見れば、まともな頭で見たら、どう考えても異常ですよね。

宇都宮 有り得ないですよね。まあ、もうちょっとすると、この状況が進んでいくと持ち治すんですかね。一般的には、そのまま転ぶ所まで行っちゃうんでしょうかね。観察者的には、その辺には興味があるところなんで。この泥の船は沈むのか、沈むのが明日なのか来週まではもつのか。だからまあ、予想するのを楽しいですよ(笑)。

三輪 なんか、良い兆候はあまり見えないですけれどもね。「あなた作曲家なら、じゃあいいコンテンツ作ってね」とかいって、ナメんなですよね。「俺に、コンテンツ作れなんてふざけんじゃない」って思いますよね。そういうところは、やっぱりあって。まあ、だから今までも結構しゃべりまくってきたけども、引き続きしゃべりまくって訴えて(笑)



「虚無システム」

宇都宮 問題はね、まあ長大な論文とはいわないまでも、文字として書くじゃないですか?読める人口が少ないっていうことですよ。動画なら見てくれるけど、文字は読んでくれないっていうのはあって。僕なんか、まあ随分前からっていうか、いわゆるネット上にサイトを誰かが用意してくれるようになった頃から文字しか出さないっていう主義だったんですけれども、どうしたもんだと。で、特にまあ一番のターゲットである直接お教えている子達に読ませたいにもかかわらず、その子たちが読めない。それについて作文させると、その作文も採点するのが困難と。で、作文の仕方っていうのも、あちこちから引用してコピーペーストで全部作っちゃうみたいなことを教えている部分もあると。「一体何なんだ、これは?」、と。

三輪 でも、それはメディアリテラシーじゃなくて、本当のリテラシーにおいて、ちゃんと教育されていないからですよね。余りにもレベル低いからですよね、小中学校が。高校もだけど。

宇都宮 だったら、その辺からやらないと。

三輪 メディアリテラシーなんて言ってる場合じゃないっすよ。

宇都宮 根本的に必要なのは、そこかって。確かに、その時点からやらないとだめだって思っちゃいますね。文化論だとか美学いう以前に、幼児教育からやらなきゃだめで(笑)

三輪 本を読んで、理解できるところから始めないと(笑)

宇都宮 先生大変だよね(笑)。でも、最低限のそういうインフラであるべき伝達手段っていうのが、どんどんこう変容ではなくて、やれなくなっている。昔は、ゲームなんかも結構興味があったんですけれども、最近のゲームって全然面白くないんですよ。何も覚えておかなくていい、特に謎がない、練習もしなくていい。「何がゲームなの?」って。まあ、徐々にそういうゲームの仕方学校とかやらないといけないんじゃない。ドイツなんかどうなんでしょうね、今?

三輪 どの辺ですか?

宇都宮 いやいや、そういう専門教育っていうか。音楽系の。

三輪 えっとだから、ケルンの音楽大学だったら従来のもちろん…、

宇都宮 僕らは、教える内容をどんどん良い意味では更新、悪い意味ではレベルを下げていかないと、授業がもう成立しないんですよね。

三輪 日本ほど下がる一方ではないと思いますけれどもね。やっぱり大学生は、ちゃんと勉強していますよ。

宇都宮 勉強している、美しい言葉や。

三輪 ちゃんとしてますよ。で、なかなか卒業できないですね。

宇都宮 向こうは出にくいですよね。

三輪 その方式、良いと思うんですけれどもね。つまり、大学入学資格試験があって、入ったらどこの大学でも基本的には行けて、好きな先生のところに行って。

宇都宮 先生を見て入ってくる子が少ないですね。

三輪 全くそうです。

宇都宮 大学院になると、そうでもないみたいですけれども。少なくとも、大学でこの学科のこの先生に習いたいと思って入ってくるのは、どことも減ってるみたいですね。僕ら昔なんて、よその大学のその名物じゃないけれど、本当は自分が習いたかった先生の授業をどうやって聞くかとか、潜り込むかなんてよくやったもんなんですけれども。今はそんな子っていうか、昔は良く来たんですよ、僕の授業には割と。ある日、出席をとってみたら、「お前、学校違うじゃないか?」みたいな(笑)。そういうのも最近はあまりなくて、そういう子はいなくなりましたね。

三輪 まあだから、世間一般どうでもよくなってきてるんですよ。どうでもいいんですよ。

宇都宮 どうでもいい(笑)。どうでもいいには、どう対応すればいいんでしょう。?

三輪 うーん…。でも、どうでも良くても死なずに済むからなんでしょうね。

宇都宮 「死なずに済む」か…。僕ら学生の頃は、冬場をどう凌ぐかっていうのは大変だったじゃないですか。コンビニなんかもないし、畑でこっそり白菜を…。

三輪 そういうこと、俺やったことないけれどもなあ(爆笑)。体験したことないけれど(笑)。

宇都宮 茄子ならいくらでもあるんだけれどもとか(笑)。あの、ドイツなんか、もっと早くにそういう時期がきたのかなっていうのは、ちらっと思ったりするんですよね。子供向けの映画で、ネバーエンディングストーリーなんてありますね?あれなんかで、主人公が戦う相手っていうのは、「虚無」と戦わないといけない。

三輪 はい、ミヒャエル・エンデですよね。

宇都宮 だから、日本でこれからブームになるのは虚無なんですかね?ピンクフロイドの「ザ・ウォール」もそうだなあ、虚無だよな。

三輪 いや、でも徹底したニヒリズムでしょう。

宇都宮 ニヒリズムなんですかね?それは、戦うべき虚無がそこにあるっていう、その認識がはっきりしているっていうことなんですか。日本の場合、そういう虚無に支配されているっていう概念がないじゃないですか。

三輪 僕なんかはありますけれどもね。

宇都宮 いやいや社会一般が。「虚無と戦おう」みたいな、そういう言い方しませんよね。

三輪 それは、だって意識化されたら資本主義経済なんて成り立つわけないんだからね。

宇都宮 ははははははっ(笑)

三輪 みんながそれだけの意識を高めたら、資本主義は崩壊しますよね。どっちが勝つかですよね。

宇都宮 まあ昔から、虚無って確かに存在しているんですけれども。

三輪 でも要は、あらゆる権威とか、そのまあ神も含めて権威っていうのは、どんどん破壊していったら、結局出てくるのは虚無しかないっていうことですから。で、まあ一応そこまで行きついているんだと思いますよ。

宇都宮 そうか。

三輪 ただ、一部の知識人のレベルじゃなくて、一般人においても既にその感覚が浸透してるんだと思います。

宇都宮 普及しちゃったわけですね。

三輪 はい。と、僕は思っています。

宇都宮 なるほどね。音楽は、虚無と戦わなければならないのですね。

三輪 そうでしょう。そういうことですよね。

宇都宮 敵は、手強いな。

三輪 加藤和彦も死んだしね。

宇都宮 虚無に負けたんですかね。

三輪 負けたんでしょうね。

宇都宮 まさにそうでしょうね。

三輪 こんな話したら、シンポジウムでは何の話すればいいんですか(笑)。

川崎 冒頭から、「虚無に打ち勝つために」っていうテーマで、まず始めていただければ(笑)。

宇都宮 でも、そもそも電子音楽が生まれた背景っていうのは、「虚無をも取り込む」っていう考え方があったんじゃないですかね?要するに、あの辺の音楽の特徴でもないけど、共通している部分は、作品なんか作っても楽しい電子音楽とか楽しいコンクレートやると先生に怒られちゃいますよね。その中に情緒性みたいなものが前に出てくるような作り方をすると、まあ大抵の場合…(笑)。暗黙のうちに、情緒性を引っ込めろというふうな圧力がかかるわけですよね。

三輪 特に初期はそうですよね。

宇都宮 結局のところ情緒性を認めてしまうと、それとセットにある虚無の部分とどう戦えばいいのかと。そういう部分を回避する手段なんじゃないですか。

三輪 それは関係あると思いますね。つまり、逆に言えば情緒性を追及すると、ポップスみたいな強力なものができるわけです。何にも負けないくらい強力なものが出来ちゃうことを、暗に知っていたのかもしれません。

宇都宮 僕なんかは、情緒性を拡張すればいいじゃないかというふうに考えていた訳なんです。だから、古典で使われる情緒性っていうのは、ほとんど記号化されていて。まあ、その記号の組み合わせには、確かに限界があると。「じゃあ、記号をどんどん増やして行くところまで行けばいいじゃん」って、僕なんか思ってしまうわけなんですよね。

三輪 でも、まさにそれがシェーンベルク以降に起こったことをですよね。要は、システマチックなものっていうのがあって、今までは調性がなければ音楽じゃなかったのに、それさえ外せばさらに色んなことが出来るわけですよね。筋道立てて色んな事が出来るという意味で、シェーンベルクが突破口になって。多分、電子音楽の最初の頃になんていうのは、17音階とかそういう絶対人間では演奏不可能なマッチョな作曲至上主義の究極を、まずはやるわけですよね。よくわかりますよ、それは。

宇都宮 まあ、その中から、「色んなものが生まれてくれば、いけるやつもあるんだろう」っていうことだったのかなとも思うんですけれどもね。

三輪 うん、だから真面目な名目としてという意味もあったんだろうけど。つまり、国家予算を使ってやるぐらいですから。「これで、音のお絵かきしてみましょう」っていう訳にはいかなかっただろうし、それでは通らなかっただろうとは思う。けれども、でも真面目にやっぱりマッチョな作曲志向はあっただろうと思うし、やっぱそれを信じますね。まず、やってみたいことはそれだっていうね。

宇都宮 だから、ピエール・シェフェールなんかも、その辺で余計な事まで言っちゃったせいで、結局死ぬ間際に、「ドレミには勝てなかったぜ」みたいな発言していますけれども。僕は、やっぱりシェフェールなんかでいうと、具体的な音や記号化されていない音っていうものを手に取れるようにしたっていう、その手法自体は凄いと思うんです。っていうか、今の全てのデジタルの基本になっていると思うんですよ。そういう意味で再評価でもないんだけれども、別の論点でその辺っていうのを、どう受け継がれたかとか。やっぱり、きちっとやることで虚無の入り込むスペースを…、

三輪 だから、それって多分両輪だと思うんですよ。

宇都宮 両輪なんですか。

三輪 僕の言い方で言うとね、シェフェールはサンプラーを作ったわけですよね。で、ドイツの方はシンセサイザーを作った訳ですよね。これ、すぐに混ざっちゃいましたけれども。基本的には、それが今でも概念としてきっちり二つあるっていうのが、すごく面白いことだと思うんですよね。

宇都宮 いや、よくそれごっちゃにしてる人は多いんじゃないですか。

三輪 あぁ…。

宇都宮 僕は、「それって、失礼じゃん!」って。

三輪 ふふふっ(笑)

宇都宮 もともと、すごく犬猿でもないけれども、「お前のそれには承服しがたいぜ」っていうのが、お互いにあったわけじゃないですか。

三輪 だからぁ、それがテクノロジーにとっては人間の概念なんてどうでもいいことなんですよ。それが、テクノロジーの怖いところだと僕思いますよ。

宇都宮 なるほどね。それが吹っ飛んじゃぐらい。

三輪 サンプラーにかける熱い思いみたいなのは、テクノロジー関係ないわけですよね、もちろん。同じ技術で使っているんですから。非道なところですよね、冷血非道なところですよね。テクノロジーの、自らの原理でしか動かないっていう。

宇都宮 全部やり尽くしちゃった感があるんですかね?やり尽くしてしまうと虚無が来る。

川崎 虚無に打ち勝つために調性音楽なり12音なりシステムをどんどん積み上げていって、そのバリケードで虚無に打ち勝とうとしたけど、結局システムの積み上げでは虚無に勝てないっていう。

宇都宮 そうでしょうね。だとしたら、今日あるオールインワンなデジタル創作環境っていうのは、最も虚無が巣食う可能性が高いですよね。全て出来る順列組み合わせが、その中にあるわけじゃないですか?MIDIも、それからサンプリングも、それを自由自在にありとあらゆる編集が出来るとされている。それも、実は怪しいんだけれども、まあされている。そうしたら、もう自分が手に入れなければいけないアイテムっていうのは、今後は無いっていうことになりますよね。

三輪 そのように見えますね。

宇都宮 見えますよね。そう思った瞬間に、虚無にやられちゃうわけですよね。

三輪 やられちゃうと思いますね。

宇都宮 で、目が死んじゃうわけですね。

三輪 むしろ、今日お話してもらったみたいにね、「こんな完璧に見えるデジタル技術が、こんな穴だらけなんだよ」って言ってくれると救われるぐらいですよね。逆に、すごく救われますよね。

宇都宮 ここは重要ですね。この辺を、突破口に。電子音楽だって、今から考えると酷いもんなんですけどね。精度がどうっていたところで、それは1%のスピード精度を保つのさえ、もう四苦八苦だったわけだし。

三輪 だって、アナログ時代に僕やっぱワウフラッターの無いピアノの最後の和音なんて聴いたことなかったですよ。一番デジタルで驚いたのは、それだったのやっぱり。完全に、ピーンと音が止まったまま音が消えていくっていうのがね。

宇都宮 っていうか、正弦波がきちんと正弦波で出るっていうこと自体がね。テープの場合、正弦波は録音した時点で正弦波ではなくなってしまいますから。っていうのは、歪み率が0.1%以下なんていうレコーダーは、ありませんでしたから。だから、理論的に今のデジタルのように、完全な正弦波とかいうのは無いんです。無いから純音って呼んでたんじゃないかって。純音っていうのは、作家の頭の中に…、

三輪 イデアとしてあるね。

宇都宮 そうそうそう。で、テープに定着した時点で、それは下界に落ちてくるわけですよね。だから、よかったのか(笑)。

三輪 でも、宇都宮さんそういうふうにどんどん言うと、またエンジニアがムキになってそれを、ねえ…。

宇都宮 いや、それは僕は観測者的にはあれですよ。それで前に進めれば、ちょっとはもちますから。「こんなところも足らなかったな」とかいうのは、あると思います。でも、それで全体のレベルが上がるんだったら、インフラとしてもレコーダーそのものっていうのが沢山できることで、新しい可能性を誰かが考えるじゃないですか。やっぱり、そこの部分っていうのは他力本願ですけど、それはやっぱり偶然に任せればいい部分っていうのもあるんですけれどもね。新し物の考え方とか。

三輪 そりゃ、そうですよね…。でも、ダメダメな楽器でもいいような気がする(笑)

宇都宮 ダメダメな楽器だからこそ、「うーん」って悩むわけ。何でも至りつくせりっていうのは、具合悪いですよね。

三輪 まして、それがそういうふうに完璧に見えるとますます悪いですよね。

宇都宮 虚無にやられちゃうから。あぁ、難しいバランスですね。

三輪 そう、バランスの問題かもしれませんね。まあだから、よく冗談で言うんですけれども、例えば僕だってMAX MSP使いますよね。だったら、どこまでが自分の創作なのかっていう。つまり、MAX MSPって環境を開発した人の手の上で、ただデジタルコンテンツなんかを作っているだけなんじゃないかっていう恐怖感っていうか不安感っていうのはあって。それは、多分デジタル社会では全てそうですよね。メディアで何かをやるっていうことは、もうそのエンジニアなり何なりが用意した環境の中で、何かをやりなさいって言われてるわけで。

だから、特に悲劇なのは、映像作家なんですよね。映像作家って、カメラなんて自分では作れないわけなんです。しかも、民生用で運動会で子供の顔がうまく映るようにチューニングされた同じカメラを使って、彼の表現をやらなきゃいけないわけですよね。で、色が綺麗だねって言ったって、別に作家が偉いわけじゃないですからね。もちろん、光の当て方とかはあるかもしれないけれど。

宇都宮 まあでも、それもカメラを製造できるっていうことは、それが需要があって、それだけ売れるから製造が出来るわけですよね。

三輪 二度と見ないようなね、子供のビデオをね(笑)

宇都宮 僕が入れ込んでいるaudacityって面白いですよ。


この後、宇都宮氏はノートパソコンを使ってaudacityの概要を説明しましたが、3時間に及ぶミーティングに店側から退席を求められ、この日はお開きとなりました。このミーティングを元に、11月3日の第一部ではシンポジウムが行われる予定です。